トピックス:タブーについて
※「あなたにもある心を回復する機能」に掲載しているトピックスをご紹介しています。 |
- 何でも素直に話せる
- 話したことを素直に聞き入れてもらえる
ということの大切さを理解して頂くために、タブーによって生じる『言えない雰囲気』が、私たちに及ぼす影響について考えてみます。
タブーという言葉には、いろいろな意味があると思いますので、ここでは、次の意味合いの部分について取り上げることにします。
■特定の話題や行動などに触れないようにするために、その社会や場に雰囲気として存在する暗黙のルール
これはもう少し短い言葉にすると、慣習による規制(自主規制)ということになります。
そして、その規制の対象を明確に示す覚書きのようなものはありませんが、確かに存在しているといったものです。
例えば、Aさんはカレーライスが大好きです。
しかし、Aさんの父親はカレーライスが大嫌いで、父親の前で、Aさんが『カレーライス』という言葉を口にするだけでも、次のような状況になるとき、タブーの雰囲気ができ始めてしまいます。
- 「自分がカレーライスが嫌いだと言っているのに分からないのか!」などと逆鱗に触れてしまう
このようなことが繰り返されると、次第に、Aさんはカレーライスのことが話題に上りそうな気配を感じると敏感にそれを感じ取り、そんな話題を避けるようになり、また、周りにもそのように働き掛けるようになります。
カレーライスの話ができなくなる原因となった「Aさんが父親に責められる」という出来事は、その場に居合わせたAさんの家族にとっても、嫌な経験となります。
ですから、Aさんと父親のやり取りを見ているうちに、他の家族にも、その状況を避けたい気持ちが生まれ、Aさんの家族全員が、カレーライスの話をしなくなっていきます。
ここでタブーの説明は終わりになりそうなのですが、実は、この先が重要です。
【補足】
Aさんが父親に怒鳴られなくても、次のような反応をされれば、Aさんの家族は、やはり、同じような状況に陥ってしまいます。
- 「結局、誰も、自分がカレーライスが嫌いだとを分かってくれない・・・」
などとすごくつらそうな様子になり、黙り込んでしまう
Aさんや家族みんなの努力によって、Aさんの家庭の平穏は保たれていますが、カレーライスという言葉には、家族全員がとても敏感になっています。
カレーライスという言葉が発せられるような雰囲気を感じると、それを食い止めたい気持ちになるのも自然なことです。
たまたま遊びに来ていた近所のBさんがカレーライスの話題を出しそうな雰囲気を感じたときにも、「カレーライスと言ってはダメ」とは言えないので、Aさん家族から、何らかの信号(例えば、視線、表情、咳払いなど)が発せられ、話が逸らされることになるのです。
Aさん一家では、そんな細心の注意と努力によって平穏を保っているわけですから、誰かが「カレーライス」なんていってしまうと大変なことになります。
大変なこととは、父親の逆鱗に触れることではありません。
「あの嫌な出来事が起こらないように、カレーライスと言わないようにこんなに頑張っているのに、どうしてあなたはそれを言ってしまうのよ!」と、他の家族も、「カレーライス」と口にする人を責めてしまうようになりやすいのです。
また、このとき、「お父さんが怒るのが分かっているのに、どうして、あなたはカレーライスと言うの!私たちは、あなたがお父さんに怒鳴られるのを見ていられないのよ!」と、なぜか、一番つらい思いをしていたはずのAさんが家族の標的になりやすいところがあります。
前回、前々回と、カレーライスという言葉を使った例て説明しましたが、実際の場面では、タブーはあまり言葉では表現されません。
本人たちは、自分の中に生じた気持ちを言語化する前に、このタブーの雰囲気によって規制してしまい、修正された言葉を口にすることになるからです。
タブーは言葉で明確に示されないので、次第にタブーの対象がぼやけていきます。
はじめ、「カレーライス」だけだったのに、カレーがいけないと認識してしまうと「カレーうどん」もダメになり、やがて「きつねうどん」もダメになって・・・というように、伝言ゲームのような感じに、その範囲は広がるところがあります。
また、その家庭で、父親だけががその対象だったはずなのに、Aさんの家でそんな体験をした近所のBさんは、「Aさんの家の人の前では、きつねうどんの話は絶対にしたらダメよ」なんてことをいわれるような感じにも広がってしまうことにもなるのです。
そして、Aさんの家庭で起こった流れと同じように、Aさんの家族の前できつねうどんの話をしようとする人を、Bさんが責めるようになってしまうのです。
この例は、極端なので分かりやすいのですが、このように、「どういうことによって、誰が、どんなことになると思っているから、それを避けようとしているのか」が次第に曖昧になって分からなくなり、最後には、ただ、その場では、本当の気持ちが言えないような雰囲気だけが広がっていくことになるのです。
タブーには、もうひとつの問題があります。
タブーを回避して口にした「あまり本心を含まない言葉」でも、繰り返し口にしていると、自己暗示にかかってしまい、自分が本当にそう思っていると錯覚してしまうのです。
また、本心ではない話を聞かされた人は、その話に違和感を感じても、タブーの雰囲気も感じてしまうので、それ以上突っ込むことができません。
また、話す人は、自己暗示にかかっているため、本心ではないことを、本心のように話しますので、聞かされた人もそれを受入れてしまいやすくなります。
やがて、タブーの世界の一員として取り込まれてしまいます。
このようにして、タブーが存在する世界では、その住人たちは、自分で考えていると思っていても、実際にはタブーの雰囲気に支配された思考に陥ってしまうのです。
組織のトップが威圧的に権威を振りかざしているような場合、トップが出席する会議の前のミーティングで、
- 「これはトップは了解しないはずだ」
- 「これを報告すると、トップの逆鱗に触れてどこかに飛ばされてしまう」
などと、自分たちで次々に自主規制してしまいがちです。
その結果、自分たちが本当に良いと思っていることとは違うことを結論としてしまいます。
終いには、「トップが廊下を歩くときには、廊下には出るな!」という意味不明なお達しがでるようなことにもなってしまうのです。
この例では、『誰に対してのタブーか』というところが明確なので、組織から離れればタブーから解放されます、
しかし、それが社会に広がっているタブーがあれば、それから逃れることは、難しくなってしまいます。
本心を話せる場所は、家族や友達などの人間関係の中に限定され、それ以外のところでは、本音は語られなくなります。
そして、今の社会には、タブーが蔓延していっているように思います。
例えば、「今の教育の仕組みは、幸せに繋がらない」とみんな薄々は気づいていると思います。
でも、それが大ぴらに批判されることはありません。
そのため、家庭ですら、子供が安心して本音を話せる場所ではなくなってきています。(家庭にもよりますが・・・)
余談ですが・・・
タブーに支配された思考を社会に広げることに、マスコミが大きな役割を担ってしまっているように感じています。
「報道番組」と呼ばれているワイドショーでのキャスターなどの説明を、その雰囲気に流されずに、じっくり聞いている分かります。
論理性が破綻していたり、多面的な解釈ができる事象を、たった一つの視点からだけしか説明していなかったりということが実に多いことに気づくはずです。
それらの言葉を真に受けていると、自分らしい思考停止して、マスコミや社会にあるタブーに支配された思考に支配されてしまう心配があるので気をつけた方が良いと思っています。
ついでに・・・
タブーからは少し外れますが、笑い声の効果音を多用する番組を見過ぎると自分本来の感覚が麻痺してしまうかもしれません。
今の社会では、様々なタブーによって、本当の気持ちを伝えること自体がタブーになりつつあるような気がします。
しかし、前に説明したように、タブーによって本心を言わないことは、我慢のパワーを蓄積させることになり、タブーを破る行為を見ると、そんな人を責めてしまうようになるのです。
そんなときの気持ちは、本人は意識していませんが、おそらく、「私はこんなに我慢しているのに、何であなたは我慢しないの!」というものなのだと思います。
現代の人たちがイライラする場面が増えてきているのは、そんなことも一つの要因として挙げられるのかもしれないと考えています。
相手を責めているとき、そのきっかけは相手のように思えるかもしれませんが、本当のところは自分にあります。
我慢が怒りの状態につながることは、『怒りについて』(P158)で説明しました。
自分は、いつから、何を、我慢しているのだろう……。
その我慢は、今責めているその人が原因で始まったのかもしれませんし、その人と出会う前から我慢していた可能性もあるのです。
そして、その原因は、自分の家庭にあったタブー、その場にあるタブー、社会の中にあるタブーの雰囲気なのかもしれません。
このようなことにしてしまわないために、タブーを作らないように、お互いの素直な気持ちを話し話される状況を保ち続けようとする努力が大切なのです。